|
『うさぎとかめ』は日本でも人気の高い昔話のひとつ。
競争をして、相手が寝ている間にかめはセッセと努力して競争に勝った。
かめは。賞賛されている。
まぁ、この場合、うさぎがかめを馬鹿にして休憩を取った事になっているので、
そのところは、また別の話(教え)だと思うけど。
(ここでは敢えてこの物語の精神性(深い学び)には触れずに、
極めて浅いところの、表面的な見解にスポットを当てて語ります)
のろまでも、地道に努力していればうさぎ(自分より能力のある者)を追い越して
1番になれる、というお話。。。。。
1番に。
ならなくてもいいと思う。
人に。
勝たなくてもいいと思う。
うさぎはうさぎのペースで自由に走ったり休んだり。命を楽しめばいい。
かめはかめのペースで、出来ればムリをせずに休んだ方が体にはいい。
というかね、私の感覚では、
うさぎとかめ(個性や役割の異なる者同士)で、競争をするなという話だ(笑)
まぁ。
教訓を伝えるには、早い者と遅い者を同じ土俵に置くのが分かりやすいから、
物語の性質上は、面白おかしくそれでいンですケド。
ただ、今は「わざわざ」現実(人間社会)に照らし合わせて語っているところなので。
うさぎの持つ能力や個性が地球で果たす役割は、かめと同じではない。
かめの持つ能力や個性が地球で果たす役割は、うさぎと同じではない。
どちらが欠けてもバランスは保てない。
その役割に「優劣」はない。
うさぎがどんなに競っても、亀の持つグラウンディング能力と生命力には届かない。
その理由は、うさぎだから。
かめはうさぎの休憩(怠慢)を利用して追い抜いただけで、
うさぎの持つ素質を得たわけではない。だって、かめだから。
そんな事より。
かめは自分の役目を放棄して、人の才能に挑んでる場合じゃない。
そうこうしている内に、かめの力を必要としている生命〈いのち〉が、
貴方(かめ)の留守中、何度も家の扉を叩いている。
うさぎも。ね、かめを誘わないでくれる?(笑)つまらない競争に。
自分の足を自慢するのに、わざわざかめを選ぶところもビックリするけど。
(ぜんぜん自慢になってないじゃん!)
いや、そんな事より。
貴方(うさぎ)に、
その個性的な走り方を習いに来た生命が、貴方が居なくて困っている。
それぞれの「持ち場」でそれぞれの才能を生かして、
うさぎには出来ないけど、かめなら出来るなら、その生命にかめの居場所を教えてネ。
かめには出来ないけどうさぎに出来る事があるなら、その生命にはうさぎの存在を教えてあげてね!
以前、知人に(私と)「同じ土俵に立ちました」という宣言を受けて、
素直に面食らったことがある。
なぜかと言うと、私の身を置くバイブレーション領域、
言い方を替えると私の「人生の物語」のステージには「土俵」がなかったから。
じゃぁ、その知人はどこの土俵を見つけて何の土俵に上がったのか。
まぁ、答えは単純ですけどネ。
土俵はその人の心に在り。
相手をどのように判断しどんな対象に見立てるかによって、
見え方や接し方は違って来ると思いますが、「ライバル」とか「競争」とかを創り出して、
それによって自身を切磋琢磨させて成長させるやり方も、それはそれで大いに有効だと思う。
その人に合った生き方をする事が最も理想的だ。
でも。
私には競争や戦いは向かない。
そうせざるを得ない瞬間もこの世にはあると思うけど、
私にとってそれは人と競争したり正しさを争ったり、人と自分を比べて優劣を付ける事とは違う。
私の選んだステージには「土俵」も「採点表」も「順位」を競う価値観も
設置していない。
同時に、意図して設置しないようにしている。
けど、誰かのステージ(心)には「土俵」があるのなら、
その誰かにとってそれは「真実」で、私が否定することは出来ないと思った。
その土俵(目標)にあらかじめ私を乗せておいた(イメージしていた)のなら、
やはりその人は、私の居る土俵に上がったのだろう。
相手がそう言うのなら、“その人にとって”それは事実なのだと考えた。
それで。
「わかりました」と答えた。
この場合の「わかりました」は、その人にとっての心境?と言うのかなぁ。。。
それを「知る事ができました(教わりました)」と言う意味。
もうひとつ。
「やっと追い付いたと思ったら〜」と言われた事もあった。
私は自分がどの地点に居るかも知らないけど、何より、追われていたとは夢にも思わなかった。
えっ!?。。そうなの?追ってたの?
また。心でビックリした。
なぜかと言うと、私の歩いている道は「私専用」で、他者は歩けない筈だから。
いつも。
私には私の道があり、ただその道を歩くだけ。
人には人の道があり、人はその道を歩いているだけ。
私には私の感じ方(体験・体感)があり、それを伝えているだけ。
人には人の感じ方(体験・体感)があり、私はそれを教わるだけ。
私には私の言葉の使い方があり、その表現をするだけ。
人には人の言葉の使い方があり、私はその表現で人の話を聞くだけ。
今は亡き先人達の見事な姿勢、現実に出会った人の背中(生き方)、
尊敬してやまない存在、ただ存在するだけで私を導き育て支え続ける人は絶えない。
それが友達でも、知人でも、年齢がいくつでも関係ない。
ただ、これまでの意識の中で誰もライバルではなかった。
誰かに憧れ、私もそう在りたいと思う存在は、いつも心に在った。
でもそれは競ったり追いかけたりする対象ではなかった。
同じ地球で「志を共にする存在」として、常に魂の支えになっていた。
そもそも。
順位を付けたり、優劣を比べたりするのは「ギャラリー」の仕事だ。
人は何でも言う。その人の魂の成長段階に合わせて。
人は、勝手に比べ優劣をつける。その人の人生のステージ上の価値観で。
でもそれは、自分にとってのより良い選択の為の、必要不可欠な要素だ。
それが「ギャラリー」の存在だ。
けど。当事者は、違う。
「ギャラリー」に動かされずにモチベーションを保てるかどうかは本人次第。
貴方は何番目か、ではなくその人はどんな人か。
貴方がどこで学んだか、ではなくその人はどのような姿勢で学んでいるか。
貴方がどんな技術を持っているか、ではなくその技術を使う目的は何か。
貴方がどれほど優れているか、ではなくその人が喜んで分かち合えるものは何か。
貴方が何年続けて来たか、ではなくこれまでどんな意識で実践して来たか。
私の興味は「肩書き」や「技術」にではなく「貴方自身」にある。
もし。
レイキの波動を正確に理解することが出来るなら、その流れは
「競争」ではなく「調和」へと導かれていることに気付くはず。
当然、「うさぎとかめ」は動物事情ではない。
本物のうさぎとかめは競わないから。
ただ生きることをして各々の地球での役割をしっかりと果たしている。
うさぎとかめが競ったのは、この物語が「人間」によって創られたからだ。
レイキには「争い」も「敵」もない。
どんな人にも個性があり、その人にしか表現できない素晴らしい素質がある。
1番に執着したり特別性を競う事は、
それが過ぎれば、これまで人間が繰り返して来た「戦争」の種にも等しいと感じる。
何の為に「大人」という言葉で、わざわざ「子ども」と分けるのか。
まさか、生きてきた年月(年齢)だけ?
私には、その意味を生きる姿勢で現し、
大人の真の姿を、その「背中」で教えてくれた人がいる。
それは今でも、かけがえのない恵みと支えになっている。
【20070528/00:44】
『聖書』コリント人への手紙(第T)13章より
11「私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、
子どもとして論じましたが、大人になったときには、子どものことをやめました」

宮崎県レイキヒーリング/Slow Work System/サイトマップ@
宮崎県レイキヒーリング/Slow Work System/サイトマップA
|