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祖父の名前は純夫。
第二次世界大戦の末期。
昭和19年4月2日に出征した。
最初の特攻隊が正式に出撃した(とされる)のが昭和19年の10月。
米軍が沖縄に上陸したのが昭和20年4月1日。
祖父が招集されたのは、日本にもう勝てる見込みが無く、
特攻隊による体当たり攻撃が対戦の主流となる直前の、終戦間近の頃だった。
元々視力が弱く、兵隊として使い物にならないという理由から
祖父は招集されず軍事工場で働いていたのだが、日本が完全に窮地に立たされた頃、
後から寄せ集めるように招集されたのだ。
祖父は昭和17年から18年にかけて軍事工場で約1年強、働いた。
その後。
福岡の特別訓練所で昭和19年の2月18日から1ヶ月間過ごし、3月18日に退所。
一旦、宮崎県諸塚村の実家に戻り、その1週間後に召集令状が来た。
(出征後、働いていた軍事工場から83円のお給料が送られて来たそうだ)
祖母は昭和15年に父を産んだ後から体調を崩し入退院を繰り返していた為、
祖父と過ごした時間はとても少なかった。
祖父も、生活のほとんどは軍事工場で寝泊まりして働いていた為、
二人が過ごした時間は本当に僅かな間だった。
祖父は手紙でよく、祖母の身体を気遣っていたという。
そんな環境の中だったから、幼少の頃の父は、
曾祖父に育てられたようなものだった(父の実の祖母は既に他界)。
祖父は戦地に赴くまでの約20日間は宮崎県都城市の連隊で過ごしていた。
入隊後は軍の取り締まりが厳しく、音信不通となる。
当時諸塚村では、
22日頃、祖父が所属する部隊が戦地に出発するらしいという噂が流れた。
その頃祖父は、都城市の神柱神社に出発前のお参りに行っていた。
その時、同じ連隊にいたが戦地に赴く部隊ではなかった知人に
「22日頃出るかもしれないから、家に連絡しておいてくれ」と頼んでおり、
その伝言は曾祖父(祖父の父親)の耳まで届いた。
口伝えの内容は
「22日頃、都城の連隊が戦地に出発するかもしれないという噂がある」
というものだった。
それを聞いた曾祖父は、ただの噂だろうと思った。
祖母を始め、家族は曾祖父の「嘘の噂」という判断に従った。
現に、当時本物の情報はほとんど庶民には伝えられず、嘘の情報が多かったのだ。
情報は軍が秘密にしていた為、噂はあくまでも噂として伝えられ、
ましてや停車駅や停車時刻の情報など届く筈もなく...。
諸塚村は、当時一番近い町(日向)に出るのも山道を車で2時間以上かかるような山奥だった。
車なんて、庶民が持ってなどいない時代に、だ。
昭和19年4月22日。
祖母の表現によると、たまたま日向の旅館に宿泊していた曾祖父は、
もしかしたら(あの噂は本当かもしれない)。。。と思い、午前0時頃に日向駅に行ってみた。
兵隊が移動するなら夜中だと考えたからだ。
日向駅には誰もいなかったし、その気配もなかった。
それで、やっぱり噂は嘘だったのだと思い、曾祖父は日向駅を去った。
実際にはその日、都城の連隊を乗せた汽車は確かに出発していた。
午前2時。
宮崎県延岡の南延岡駅に汽車が2分間停車した。
祖父はその汽車に乗っていた。
運良くも正確な情報を得た兵隊の家族や親戚がたくさん見送りに来ていた中、
自分の家族も見送りに来ているものと信じていた祖父は、
汽車を降りて「諸塚の宇田津は来とらんかー!」と叫びながら
家族を探してホームをあちこちしていたという。
その姿を見かねた財光寺というお寺の人が、
「何か伝える事があったら伝えましょうか」と声をかけると、
祖父は名前と電話番号を言って「2時頃ここを出た事を伝えてくれ」と言うのがやっとだった。
汽車は、出発した。
後にこの事を知った曾祖父と祖母が、どれほど胸を痛めたかは文章にならない。
私はこの話を、子どもの頃から何度も何度も、祖母にせがみ、
これまでいったい何回聞いたか数え切れない。
祖母はこの話をするといつも、涙ぐんでしまう。
どうにもできない後悔というのが、祖母の背中にはあるのだと思う。
その事から1週間ほど経って、福岡県の宗像市から、
知らない人の住所と名前で祖母の元に手紙が届いた。
開けて見ると、それは祖父からの手紙だった。
文面には、自分の名前では出せないので宿の人の名前を借りたと記されており、
船が出るまで1週間ほどそこに留まるという事が書かれていた。
(名前を貸してくれた方には、後に祖母がお礼の手紙を出している)
あの日、延岡南駅に停車した汽車は福岡県に到着し、
船が出るまでの間、兵隊達は居場所を知られないように
宗像市の一般の民家に2〜3人ずつ分かれて宿泊していた。
また手紙には「この手紙が着く頃には朝鮮(現在の韓国)の汽車の中でしょう」とあり、
祖父はあの日、汽車の中で配給された2個のパンを、
南延岡駅で父(祖父の息子)にあげるつもりで、
パンを持って探したが会えなかったので、
同じくらいの年の子どもにあげたとも書いていた。
祖父は、父(息子)にあげるのと同じつもりで、同じ年頃の子どもにパンを渡したのだろう。
体の弱かった祖母には、今度帰る頃には元気になっている様にと書かれていた。
6月生まれの父は、当時(4月)まだ3才だった。
戦地へ送る為に
日向まで出て、
祖母が父と写った写真 |
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《つづく》
【20080401/00:07】
※日向と延岡の間は車で約30分くらいの距離。

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