小学校1年生。

私は「無口」の領域を軽く飛び越えていた。

学校で「ひとことも」しゃべらない。

先生に面と向かって話しかけられても、黙ったまま。
声がでない。

家族内では話していたので、声の出し方や話し方は覚えていた様だけど。

極度の緊張状態に陥っていたのか「人になれていない」印象が強かった。

その頃。

どこか外国の石畳のゆるやかな坂道の中央に、
クリーム色の子犬が前方を向いて立っている(2本足でじゃないよ?)夢を見た。
ただそれだけの夢だったけど。。。

翌日、また同じ夢を見た。

で。

その犬を自分のように感じて。
その犬を、自分だと思った。
以来、私は前(生)はどこか外国の犬だったんじゃないかと、勝手にそう思った。
小1、女児。

とにかく。この世界のすべてが不思議で興味深かった。
会話や情景をじっと観察するこども。

どんなことを話しているのか、どんなのが「ふつう」と呼ばれて、
どうなると「ほめられる」のか、
観察と勉強繰り返す、それが私の小学校時代だったと思う。

慣れるのにずいぶん時間がかかった。

ようやくまともに口をきき始めたのは3〜4年生くらいから?
トモダチと呼べる人ができはじめたのも、その頃。

そんな無口な、特にしゃべらない1年生のとき、
とうとう担任が心配して知能がついていかないのではないかと心配され、
(親に相談があったんだって、当時)児童相談所へ知能テストを受けに行った。
平日に母と2人で行ったので、内心は、楽しんでいて...。
何をしに行くとかぜんぜん知らなかったけど、
いつもと違うことが起こるとワクワクする。無口で無表情でも、それは事実。
こころはよく動いていたからさっ。
まわりにはわからないだけでネっ。

同じ頃。
ある日曜日に。
自転車に乗ってクラスの男子が5人ほど家へ訪ねてきて「さとみさんいますか」と、
母に言ったらしい。
母が庭で遊んでいる私に「誘いに来てるよ」と、そのコトを伝えると一も二もなく
「行かない」と答えた。と、いう話。

女の子ならわかるが、男の子ばかりが5人も誘いに来たことを心配に思った母が、
大丈夫なのだろうか...と、後日担任に相談した。らしい。

そして。
その時の担任の回答がすごかった。

「この時期の男の子は珍しいものや不思議なものにひかれるので、
おそらくさとみさんは普段から無口で神秘的な雰囲気があるので、
冒険をしに行ったのではないでしょうか」

冒険は。山とか、海とか?洞窟とか...に、行くものかと思っていたが...。.
人間も、その対象になるらしい(笑)
彼らにしてみたら...私は「未知」の存在だったのだろうか?
今となっては真相は不明だけど。

まぁ、そんな子供時代を過ごした私の得意なところは「無言」。
“むごん”というこの言葉をわざと“むげん”と読んで、
私の人生の指針?を『無言実行
〈むげんじっこう〉』と表現するわけです!

どちらかと言うと、アレコレ宣言しながら事を進めるよりも黙々と自分のことやってる
生き方のほうが、心に描いているビジョンを達成しやすい傾向にある。
これまでの人生パターンによると、口に出したらそれで気分が落ち着いてしまうのか、
または(自分で言っといて)勝手にプレッシャーになるのか?
実際には“やらない”ことも少なくない。
けど、これを逆からとらえると本物に本気な時は口に出さない、とも言える。
あるていど具体化するまで、もしくはその事についてのおおよその成り行きが
見えて来るまではわりと黙ってる。
努めてそうしていると言うよりは、気がついたら“言ってない”というか、
後から思い返すと“黙ってた”とか。
誰も知らないところでコツコツと物事進めてる感じ。
なので。たいていは事後報告。
口に出した時にはもう意志が決まっていて、イマサラ人が何を言っても遅い。
周囲にしてみれば、このところは厄介だろうなぁって(笑)自分でも思うし。

それでも。

ただ自分のやりたいことを黙々としている事についてはギャラリーも何も言ってこない。
(...って言うか何やってるかしらないし)
よく言われたのは、ひとりで苦境に耐えたあとの結果報告をした時
「何でその時言ってくれなかったの」とか「ひとりで考えないでほしい」とか、
そんなセリフ。

ちょっと、キツイ例えになるけど。

高校生の頃。

何となく見ていたテレビのニュース。

自殺した我が子に「そんなに苦しんでいたのなら何でひとこと言ってくれなかったのか..
言ってくれれば...」と、泣きながら話すシーン。
私も思わずいたたまれない気持ちになり、気がついたら残された立場に感情移入していた。
たまらない思い。
「死ぬほど辛かったのなら何でその前に言わなかったのだろうか..言って欲しかった」
と、そう感じた瞬間、テレビの画面からその印象が伝わった。


『あなたじゃ、だめだった』と。


声が聞こえたわけではない。
どう表現すればいいのかわからないけど“それ”は伝えられたのだ。

同時に。

私がそう言われたように感じた。そう、『(あなた)私じゃ、だめだったのだ』
その時依頼、自分に伝えられなかったSOSには『あなたじゃ、だめだった』という
メッセージを受け取り、それを受け入れる。

だって。

それじゃ、しょうがない(弱笑)
私に出来ることはなかったってことだ。
自身の器を飛び越えてまで誰かのサポートをすることはできない。
等身大以上のものにはなれないという「証」かもしれない。
それに、ね、言えるなら、言ってる。
私じゃ、だめだったのだ。でも。
ここで間違えないようにしたいのは、経験・年齢・性格・環境・実績・考え方を総合して
“私じゃだめだった”だけで「“私が”だめだった」わけではない。

同じ仕事、または環境で生じる辛さを分かち合えても、全く違う仕事や環境の相手では
なかなかその苦労を分かち合うことが難しいと感じた経験はないだろうか。
その意味でも、死を思う立場から、その痛み・苦しみを人に分かち合える
(打ち明けられる)と感じることはかなり難しいと思う。

そう思えば「(あなた)私じゃだめだった」のは当然のこととも思える。

けどもし、他の誰かには打ち明けられるなら、そういう人がひとりでも存在するのなら、
それは私じゃなくていい。
だから誰のことも、辛い時に言って「ほしい」とか、思わない。
その時の考え方や行動は、本人が自分で選ぶことだからネ。

けど、私宛にSOSが届けられた時は、あとから心底安心し感謝することが多い。
ただ話しを聞くことくらいしかできなくても..いや、たいていそれしか出来ないけど..。
少なくとも彼女なり彼が「誰にも言えない」環境ではなかったことを知るだけでも、
ホッと胸を撫で下ろす。伝えてくれてありがとう。本気で。そう感じる。

それがストレートなSOSではなくても、何となくメールだったり、
久々の電話だったり私の声や言葉でかなうことなら、
その時その人にとって「連絡をできる相手」でいれたことに、
何度も胸を撫で下ろす。
もし何も知らずにその人を失ったら、やっぱり、
どんな睿知を集めた言葉を伝えられても
「何も出来なかった」ことを悔〈く〉いると思うから。
いや、例え事前に知らされてその時自分に出来る精一杯をしたとしても..。
いや、だったらなおさら、その人が死を選んだ時は自分を責め続けると思う。
それが人間という生身の存在だと、そう思う。




そんなコト言っときながら矛盾するのだけど..。

それで。

結局。

あなたのそばの誰かが、誰にも、あなたにも何も打ち明けず
「死」を選んだとしても、あなたは何も悪くない。
伝えられないSOSに、どんな手だてが打てるのだろうか。
「それほど」苦しんでいるのを知らずに、出来ることがあったかもと考える方が不自然で、
そう考えること自体が更なる苦しみを運ぶ。
そして。
もし、その苦しみを打ち明けられていたにも関わらず結果的に
「何もできなかった」としても、それでもあなたは何も悪くない。
「死」に向かうほどの苦悩に対峙できる経験・年齢・性格・環境・実績・考え方を
持ち合わせた人間が、いったいどれだけ存在するだろうか。
そう考えただけでも、私やあなたが「何もできない」のはあたりまえだ。
だから。
あなたは何も悪くない。
誰のせいでもない。
その人は「言わない」ことを、自分で選んだ。
自身の責任に於いて。

私も「言わない人」だしネ。ちゃんと、「言わない」ことを選んでる。


私の場合。
“生まれてきたこと”自体が、すでに寂しくてたまらないので(笑)
もともと“還りたい”願望は強い。
同時に、いつかは還れる(死ねる)というのが生きている唯一の希望である。
いつかは還れると思えばこそ、頑張れる。
生きてさえいればいつかは必ず還れる。
でも、だからこそ、今日一日を大切に思う。
限りある命だからこそ、死ぬまでは生きよう、生きることをしよう、と。

この「究極の寂しさ」は私の生涯のベストフレンドで、なくなることはない。
けど、その「寂しさ」そのものを受け入れ、その自分の全部を愛しているせいか...。
この世で幸せを感じるとき、それは本物に幸せであり、
この世で楽しさを感じるとき、それは本物に楽しいのです。
自分でもとびきり不思議に思うことがある。
生きてる自体が寂しいのに、感じる幸せが本物である時。

かなり話しがズレたけど...。


私も。
話して何とかなると思えるのなら話すと思う。
けど、話したら「人の生き方」で諭されるのがキツイから、言わないことが多い。

私のには。
正しさや激励は、よりいっそう傷口に響くのだ。
だからといって自分の為にこんなふうにしてほしい、とか、他者に対する要求とかはない。
あ、いや、そんなの当たり前だけどね(笑)
だってもし、自分が何かの相談を受けたりしたら、それがいいかどうかは分からなくても、
聞かれたのなら自分の考えを伝えると思うし、
そうじゃなくてもフツーに会話をするのなら意見や考えを交わし合うのが
自然なコミュニケーションだと思うから。

だから、誰にも何も言われたくない時は、
その事について口を閉ざすのが私の選択なのです♪

その意味で、自然は私の大好きな味方。
ひとりで出掛けて行って木々や大地に今の自分の気持ちとか、迷いとか、
心の中を全部打ち明ける。
木々や大地は、じっと、黙って聞いてくれる。
意見もなく批判もなく、励ましもせず同情もしない。
ただじっと心の成り行きを見守ってくれている。
さんざん打ち明け話しをした私は気が付いたら自分の本音と向かい合い、
帰る頃には足どりも軽く新たな気持ちで明日を思う。
木々や大地に「ありがとう」と何度も伝え、その場を去るわけです。

自然界のエネルギーの浄化吸収能力はフツーじゃない。
人間が逆の立場で同じことをしようとしたら、
その後三日間は寝込まなければならない?かも(笑)

せっかくなのでこんな話しを。

例えば私が誰かの批判をしているとしよう。目の前にいるのは友人?家族?恋人?
私は目の前の相手とは関係ない人を非難〈ひなん〉しているかもしれないが、
その「非難」に宿るエネルギー(毒)は、目の前の相手に流れている。
ただあることをある、という客観的会話には毒は生まれにくいが、
非難相手に対する感情が伴っているときはその感情に宿る毒が、
何の関係もない「聞き手」に与えられる。
聞き手が私の理解者なら、大切な私の味方に毒を流していることになる。
ちょっと、ゾッとする話しだけど。

また、話しがズレたけど。
「無口・無言」も使いようですネ。

まぁ、何でも“過ぎる”とバランスを失う可能性があるので、
何がいいとか悪いとかは決して言えませんケドねっ。

最後に。

むかし、親しい人によく言われてたことがある。
“何を考えてるのか教えてくれ”と(笑)そうじゃないと不安だって。
(でも。話したら意見を言ってくるじゃん)

人の意見も大事だけど、私には私のやり方が一番合っている。

私が「黙ってる」時は、もう心が決まってる時なのさっ。

無言実行!

20051114/P318



宮崎県レイキヒーリング/Slow Work System/サイトマップ@

宮崎県レイキヒーリング/Slow Work System/サイトマップA


  


Copyright (C) 2006-2008 Satomi Udatsu all rights Reserved.

Healing Office

Slow Work System


REIKI

『無言〈むげん〉実行』