今からおよそ9年ほど?前。ちょうど宮崎に帰省していた時でした。
居間に入るとTVのドキュメント番組が流れていて、
それを何気なく見ていたのですが・・・
気付いたらその内容に夢中になっていました。


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《谷 美智士
〈たに みちお〉/医学博士》
中国医学の研究を進めると共に、東洋医学についても精力的な活動を続け、
東西両医学を併用した医療を実践。
1987年に「日本東方医学会」の会長に就任。
1999年には東方医療振興財団の理事長に就任。
今でも変わらず、癌、エイズを始め種々の難病治療に取り組み続けている。

※『読売ぶっくれっと 16 新しい東洋医学/読売新聞社』参照

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その番組は、谷博士のルーマニアでのエイズ児治療を特集したものでした。

番組の内容は、当初谷博士ご自身が直接ルーマニア政府に対して、
エイズ児の生薬治療をさせてもらえないかと、
働き掛けをしたところから始まりました。
その、最初の働き掛けに対するルーマニア政府の返答は「NO」でした。
ルーマニア政府にしてみれば、東洋の得体の知れない医師が
得体の知れない治療法を提案してきた・・というのが最初の印象で、
端から生薬などが最先端の病に効果を現すはずがないという、
先入観があったようです。
谷博士は、再度ルーマニア政府に働き掛けますが、
良い返事は返って来ませんでした。
ようやく、許可が出たのは3回目の働き掛けに対してだったと記憶しています。

※後から確認したのですが、その時の一連の成〈な〉り行きと説明が
 『読売ぶっくれっと/新しい東洋医学』に、次の様に記されていました。


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三度目のルーマニア訪問のとき、
ある看護婦が治療を希望しているとの話しが入った。
子供の治療中に、誤って注射針から感染したもので、
自分の責任で治療を受けたいという。
彼女はリンパ腺が腫れ、微熱が続いた。
体がだるく、寝汗をかき、
やせるなどエイズ特有の日和見感染の症状が出ていた。
この看護婦の治療が突破口になり、
その年の八月にはルーマニア政府から
正式に子供たちへの治療が許可された。
東洋医学に対してはまだ理解がなかったため、
現地の医師と共同研究の形をとった。
生薬にはウィルスを叩いてエイズを完治させる力はない。
ところが、
生薬の材料には免疫力を高める多くの薬効成文がある。
これを有効に使って体に免疫力や抵抗力をつけさせ、
エイズを発病状態からキャリア(保菌者)の状態に
戻そうというのが基本的な治療法なのだ。


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そこから、谷博士は生薬治療の機会を得られたわけですが、
そのグラウンドとして全ての環境が整ったわけではありませんでした。

ルーマニア政府から許可されたのは「三ヶ月間だけ」の試みで、
その間効果が見られなければ治療は打ち切るという条件付きの受け入れでした。

副作用と引き換えに効果を得る西洋医薬に対して、生薬による治療は、
副作用を起こす可能性が極めて少ない分、その効果はゆるやかで、
充分な結果を得るにはそれに適した時間が必要でした。
谷博士の計画していた生薬治療に対して、
三ヶ月という期間はあまりに短い時間だったのです。


《時間が足りない》


限られた時間で最良の効果を引き出す為には、それに応じた対処が必要でした。
谷博士は、本来ならひとりひとりの症状や体質に合わせて調合をしていくところを、
「エイズ」という病に対してひとつの調合を統一することで、
全てのエイズ児に同じ「生薬」を用いることで短期治療に対応しました。


《生薬治療に三ヶ月は短すぎる。この期間で、いったいどこまで結果を出せるだろうか》


現実は、そう考える谷博士の予想を上回る結果となりました。

現在、『明日の家』と呼ばれているルーマニアのエイズ児専門の施設は、
当時、症状の重さで部屋分けされていました。
その中の「死の部屋」と呼ばれている部屋は、西洋医学に於いて完全に術を失い、
死を待つ為だけに生きる子供たちの部屋でした。

信じられない奇跡を現したのは、
この「死の部屋」でほとんど「骨と皮」だけの状態で横たわり、
動くことも出来なかった少年です。
生薬治療を開始してからほどなくして、彼は回復を始めました。
誰も、予測しなかった現象です。
当然、他の部屋の子供たちも続々と回復の兆しを見せ始めました。

約束の三ヶ月が訪れる頃。
「死の部屋」の少年は、自分の足で立って歩くほどに回復していたのです。

これらの結果を受けて、ルーマニア政府は谷博士に治療の続行を依頼しました。

※以来、ルーマニアでは9年以上に渡って生薬治療が続けられており、
 現在までに副作用と思われる症例は出ていないそうです。(2005年12月16日現在調)

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この番組では、もうひとつ、
『白血病』に対する生薬治療の実例を取り上げていました。
患者は男性で、年齢は覚えていませんが、
外見は20〜30代くらいの方だったと記憶しています。
その男性は、最初は西洋医学に基づく抗がん剤治療を受けていました。
当時10人部屋?に入院しており、他の患者さんも全て白血病でした。
治療を続ける中、
男性は強い抗がん剤を用いる化学療法に対して疑問を持ち始めます。

“自分の体に施す治療は、自分で選ぶ権利がある” 
そう考えた男性は、最終的に西洋医学による治療を断りました。

化学療法を受けずに済む方法を探し続けた彼が行き着いたのが『東洋医学』、
つまり谷博士でした。

番組で紹介されたのは、その後谷博士の元で生薬治療を続ける中、
もとの生活に戻り、社会復帰を果たした男性の姿でした。
生薬治療を開始して三ヵ月たったころ、
体調を回復した男性はかつての入院仲間の元にお見舞いの為に訪れるのですが、
病室に仲間の姿はありませんでした。
その部屋に入院していた白血病患者全員が、すでに他界していたのです。

以上が、その時に見た番組の内容です。
随分昔の「記憶」を辿る作業だったので、
細部に渡って完全に正確かどうかは断言できませんが、
内容の大筋は合っていると思います。

そして。

このお話には、「後日談」があります。
この番組を見てから2〜3年後の出来事です。
その頃私は、東京・有楽町にあるカメラセンターに勤めていました。
そのお店では、カメラに関する業務以外にコピーサービスも行っていました。

そして。

私はその頃も、時々ルーマニアの「死の部屋」の少年を思い出しては
「あの少年はどうなったのかなぁ・・」と気に掛けていました。

そんなある日。

ひとりの女性が、カラーコピーを利用する為に、カメラセンターに訪れました。
コピーの内容は「写真」でした。
店員がコピーをとるシステムだったので、内容は自ずと目に入ります。
その時、その写真の中の少年を「知ってる・・どこかで見たことがある・・」と、
潜在意識(記憶)が反応しました。漠然とした思いに包まれながら、
シーンはレジへ移ります。私は、会計を待つ女性が持っている写真を、
無意識に、じっと見つめてしまいます。
その様子に気付いた女性が「彼、エイズだったんですよ」と、
笑顔で話し掛けてくれました。

『ピタリ』と、記憶が一致しました。

「やっぱり・・そうだったんですか!私、テレビ見てたんです、ずっと、
どこかで見たことあるって思ってて・・」
私にとって、この上ない感動を体験した、劇的な瞬間でした。

“生きていた”

しかも、元気で。
その少年は、ふくよかにさえ見えました。
生き生きとしたその様子からは、かつて死を待つ為のベッドで、
身を横たえていた状態など想像もつきません。
ものすごい感謝の気持ちで、どうにもならないほど嬉しかった。


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『可能性』

それは、先に外から与えられるものではなく、
自らが探し行動して『結果』を得ることによって、
後から示される言葉なのかもしれません。

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〈さら〉に。
その実話にも、後日談があります。
女性が訪れてから数日後、今度は。。。
谷先生ご本人がお店にいらっしゃいました!!!
病院で使用する機材のことで足を運んでいただいたように記憶しています。
浮き足立った私は(笑)、思わず「谷先生ご本人様さまですか?」とか、
ハッキリとは覚えていませんが、そんな風に伺ったと思います。
谷先生は、少し、ビックリされたご様子でしたが、
数年前TVの「特番を見て知っていたこと、
そして、その少年の写真を数日前に見て感動した気持ちを伝え、
「がんばってください」と。。。。
あぁ、あまりに月並みな言葉を!お伝えしたのです(笑)
内心、“もっとマシな言葉はないのか!?”と、思いながら!

けど。
このルーマニアの少年に関する一連の出来事は本当に嬉しかったです。
世の中とは、なんて素晴らしい事が起こるのだろうか!?って。

『ある実話』

この文章を綴ったのは、ただひたすら、
このような方がいらっしゃるのだとお伝えしたかったのです。
同じ地球に生きる人間のひとりとして、その仲間として、
自分には成し得ないことだからこそ、
どうにもならない感謝の気持ちがするのです。


最後に。


『読売ブックレット/新しい東洋医学』より、
谷博士が「東洋医学に携わるようになった原点」と、自らが記された内容を抜粋します。


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私は母一人子一人の家庭に育った。
母の並大抵ではない苦労によって長崎大学医学部に学んだ。
医者になることは、母の夢でもあったからだ。
その出発となる卒業式の日に、母は胃がんで倒れた。
手術をしたときは、肝臓にも転移していて、すでに手遅れの状態だった。
発病から二年、残念ながら他界した。
激痛に襲われ、日に日に食欲も衰えていく苦しい闘病のなかで、
唯一母の癒しとなったのが、東洋医学だった。
温熱療法とよばれる、
ツボを温めて刺激する温灸
〈おんきゅう〉によく似た
一種の理学療法と鍼灸
〈しんきゅう〉だった。
この治療を受けている間、母の痛みは和らぎ、
食欲も出て「気持ちがいい」と繰り返し言っていたことが忘れられない。
当然のことながら、私はこの治療に当初、猛反対をした。
東洋医学というものが、何かいかがわしいものに映っていたのだ。
しかし、自分が学んできた西洋医学ではないものによって、
母の苦しみはわずかでも救われたというこの事実は曲げようがなかった。
それがきっかけで私は東洋医学に深い関心をもつようになり、
独学で研修を重ね、やがては東洋医学の道で、
西洋医学では埋められない苦しみを持つ人たちのために、
何がしかの力になれればと思うようになった。



『読売ぶっくれっと 16 新しい東洋医学
 /日本東方医学会会長 谷 美智士
〈たにみちお〉』読売新聞社


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∞知民∞
20051216/P350


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『ある実話〈じつわ〉